鬱陶しさは、自分の内に秘めた、自分生来の
変なおかしさであり、人とは違うことの気分である。慾に駆られて 人とは違うことに興味を持ち、それにて承認欲求を満たそうとする。僕の単純な気の引き方である。他者の要件の内容すら、自分としてはの意見に集約しては、いかに相手から自分への関心を引き出そうかとの葛藤になにも導き出せない、あまりよろしくない執着心である。もしもの世界に自分が憧れるのなら、自分のステータスを確立することに勤しみ、そこに安住の胡坐をかいていたい。でもねも、あのねも、申し分なく密かな悩みであってほしい。他人配慮の憂鬱感に屈服感がきて、満たされない気持ちになる。なのに、何度も同じ言葉に酔う、考えの淵に、何にも考えられない自分がいる。
要するに、気分のいまいち優れない、鬱陶しい自分にやましい気持ちの差し替えがきて、余計に気分が沈んで、不健康に思える、自分のビジュアルに対する悩みも一色単に考える
、プライドの感覚のひしめきの感触である。
こう思えばいいのか、ああ言えばいいのかのの簡単な葛藤において、自分の恥を晒すことに極端に怯えてしまっている。だからこそ、承認の中身が、言いすぎでない風な期待の現われであっていいんだと思う。でないと、また考えの執着であって、自分の考えではないような気分になりそうで怖い。
明るい未来への一歩
今年ももうすぐ終わりですね!
今年いっぱいの総くくりとして、書いています。
自分自身に問う、今年の感想と来年への願い。
今年は、自分自身の体調、特にメンタルの面での成長が垣間見えたのが
一番素敵な思い出です。前は、なんか、か細い、弱弱しい声でいたし、
コンビニの買い物が怖かったりしてました、やっぱ、周りの反応がどうか
すごく気にしちゃうんですよね!
でも、今年も終わりかけの今日、なんだか、この2~3日間なんだけど
びくびくしていない自分の声を聴いただけでも、ホッとして元気が出ます。
自分の今置ける現状がどうであれ、最も頼れるのは自分という意味でも
今は裕福な気持ちです。
では、来年はどうであるか?今なお続く、自分の脆弱な環境(まあ、
要するに給料が低いとか)からくる未来への不安。
これは、なかなか、解消しにくい問題ではあるでしょう。
でも、自分としては明るい気持ちになってきているだけでも、多少の
喜びはあってもいいな!と思えてます。
それくらい、来年こそは、明るく生きたいです。
暗い自分とサヨナラしたいな!と思います。
親愛なる何人への手紙
人間たるものにおいて、一番必要なものとは、何か?
愛か欲望か幸せかお金か?
久しく会っていない、友人の知らせとかも、よく言う、幸せに似た
形の喜びを運んできてくれたりする。
もし、僕がこの地球上において、たった一人の生物ならば、以外にも
自分の中の勤しみの考えを麗してくれる、何かに気づきたい。
もうちょっと、関係が濃ければ、言ってあげたいことはたくさんあるような
気がする。
でも、その関係がこじれるようなら、そっとしておいたほうが良策なのか?
今自分が、置かれている環境の依存の中身が、いやいやにでも、人と密接に
いなければならないのなら、今以上の答えなど、見当たりはしない。
行為は不当感の前提として、自分の取り巻く感覚の差し伸べに求愛を求めず
とも、自然といかにもという感じではびこっている。
なのに、自身の感じ方のいかんは、基本、当人まかせの現状で、一体、僕に
何ができるだろうか?
キツイ、汚い、格好悪いなんて言葉の意味の内情のありようが、その人の
中身まで打ち消そうとするのなら、もしも、僕に当てはまる言葉としては
何が僕に当てはまるだろうか?
猛威を振るう、病原菌のような、抵抗力がいる、力の大波に対して、自分が
できる最善の努力とは、一体何か?
もう、苛立つ、自身の打ち消しの言葉に酔う必要はないのだ、時間が有り余る
のにも、ミサイルが飛ぶ時間にも、人は一生けん命動いている。
自分の中にもう一人の、自分がいて、意味があるのなら、ジレンマの形に
察しが効いて、自覚の中に、本能が呼び覚まされて、時期の大事さを感じて
くれている。今なお、時間に明け暮れることの意味において、自分の感情の
鼓動を感じて、データベースに蓄積していく。
そのことの、本当の意味は、慈愛の重なる、ほんの一間の幸せにつながる。
きっと、空白の時間に対して、自分の感情の中身のほどけ具合に、彩を
加えれる、一瞬のきらめきであり、自分の冠たる、お惚気の一部になりえる
だろう。きっと、これで、もう大丈夫。意識のなかの嘘は溶け込んで、空気
交じりの愛嬌に聞こえて、いかんともしがたい、時空の空気に挟まれた、自分の
劣等感の感じ方にピリオドが来るだろう。
今しかない、今でしかない、今がいいのだ。
贅沢という欲望の罠
最近、ちょっとしたことが憂鬱に感じることの原因として考え始めたこと。
それは、自分が必要以上に贅沢になっていないかということだ。
自分が思っている以上に、自分がうぬぼれている現実感が、ある意味
歯止めの利かぬ、欲を生み出して、自分を苦しめているのではないか?
という疑問から生じたものだ。
見透かされた気持ちで、ままならぬほど、自分が一生暮らしていけるほど
のお金や願望の期待感が、自分のいる、簡単な気持ちの整理も、ままならぬ
まま、一生の希望を享受したいという、気持ちの現れが、自分とは思えぬ
ほどの将来への期待感として渦巻く、欲望のひしめき(互いに押し合って
騒いだりすること)がぎゅぎゅうと心を締め付けるのは、なんでもない
空虚な気持ちの察しに思うことの恥そのものであると思うのだ。
その恥の前で居座り続けることは、何にも変えられない気持ちになりて
自意識の緩慢(手ぬるいこと。きびしくないこと。)さを生むのかもしれない。
つまり、贅沢を享受するには、かなりデリケートな部分まで自分をゾンビ
てきな思考も倫理も道徳も関係ない、むさぼり(満足したり飽きることなく求めること、(悪習を)反省することなくやり続けること、惰眠を貪ること、がっつくこと、 欲張ること。)に行きつき、やがて、自分の全体
を支配してくる。もしも、情緒知らぬ間に、そんな、気持ちを生むのなら、きっと
贅沢が根っこに絡まっているとしかおもえなくなる。
他者からの批判と心のサイクル
人生のなかで、今ほど自分に素直に望めていることがあることの喜びとして
昔の自分に感じていた、今、自分は無理しているか、あるいは、無難に日々
を過ごせているか?
もしも、2者の捉え方に人生が選択権を持つのなら、今ほどゆとりで人生を
見つめていれるだろうか。
感謝して人生に触れる感覚のなかで、自分らしい本能が先に気づいて、そこに
導いてくれる。そんな、人生の折に触れて無理して自分に嘘ついて生きることの
中身と、無難に時を稼ごうとして、何にもせずに生きているだけの時間の生き方の
どこかに、似通った点を感じる、それは、勇んで思うことの、はかなき自分の
心情に嘘が混じっていて、自分じゃないような気持ちのこだわりが、ますます
増えてくることの、後からくる後悔である。
なんでもない、過度な気持ちのおりかためかたをして、他人に譲る気持ちが
まったくもって、育まれていないことに感ずる、窮地に一生を得ることのない
まがい物じみた人生観である。心の躍動感に心の準備運動の必要性とすると、
どっかで聞いたのある、心のバネが伸び縮みすることなく、のびて張った状態
が続くような気がする。他者に譲る気持ちとしては、一語一句間違うことなく
言い図ることは、不可能に思う。要するに昔聖徳太子が10人の疑問をすべて
聞き取った挙句全部応えきるような、不可能ような可能性に思う。
例えば、こんな風に聞こえよがしに聞こえる他者からくる批判めいた感情の
中身は、2つの意見を交互に取り違えて、無理にききとるか、なんでもないように
無難に聞き取ることになる。それは、発した人意見がどうでもいいと思える
ほど、保守的な色合いの深い打算の欲求
の現れである。
もし、どこかで、このようなかわりばんこのような、心のサイクルを
してみるなら、簡単に心壊れてしまうだろう。
生涯最愛のものとは、一体なんなのか?
自分の果てある、人生のなかで、最愛のものとはなにか?
自分がいままでで、最も愛すべきものに出会えただろうか。
その疑問すら解消できていない、目下、現在の自分である。
人生がおおむね、80から100年のスパンで考えれるのなら、僕は
現在、その半分まで到達したことになる。
いままで、愛し愛された、多くのもの、あるいは、ひとになにを思うか。
ほとんどの紐解きは、中身の偶然性であり、物腰一つとってみても
千差万別である。
そのときおりで、十分考えつく、幸せの価値観に、もの雄々しく思う我の
感じ方の秘めた思い、人生は多難であることの裏返しに感ずることのできる
幸せとは、いかに存ぜぬこしらえの不自然さのなかにある、究極の答えである。
いかにも、もっともらしい意見の感情的な捉え方に、いささか不足気味の我の
考え方の生き方の不埒(不始末の意)に、対して、返し刀返ってくる、意識の
偶然性で生きれていることのおかしさは、最愛のものを手に入れても、その
いきさつたるや、万物(存在するものすべて)の心にはとても及ばない。
察するに余るがごとく、自分には到底受け取り難い、真実の悩みに、くすぶる
事実の涅槃(安らぎ)の思い。それこそが、なかなか自分に打ち解けにくい、日常
の愛したい心のきざしであり、生涯、最愛のものとしたい、境地である。
孤独と恥を抱える承認欲求
承認欲求の形の中に見える、不揃いな心の様とは何か?
行動の中身が、人の様に見えて、自分が誇りを感じにくい。
その鑑みの反感を感じて、いかにもという行動の感じをだす。
それが、人にどういう効果をもたらすか?あるいは、人の感情
を逆なでするような、気持ちのおさまりようのない、他人の
感じ方の研究が始まると、勝手に妄想概念の形成をもくろみは
じめる。自分は優れているとか、誰にも負けられないとか、最初
から、相手にしていないとか。
それが、人が感じている感情的な部分を反対に感じてしまい、嫌われて
いるのに、好かれていると感じたりとか、逆に好意を持たれることに、
うんざりしてしまう。
その感覚の中身は、全くとはいいがたいが、何か欠けて見える、不遇感が
ある。自分がこんなにもおもっているのに、何にも示してくれないとか
あるいは、自分達ばっかり憂き目にあっていることに困り果てて、孤立して
しまう事のおそれから、情緒のなかに孤独感をおっくうにしてしてしまう
感情の欠点を感じる。それは、筆者が自分に感じる、承認欲求の本質的な
心の汲み取り方である。
その様はまるで、おっくうにしている孤独の中身を知られたくないという
感じ方の毒牙にみえる、必死さである。どのみち、比較されているように
感じる、社会のルールとして、モラルに欠ける行動にみえる、他人を意識
することの、冠たる勘違いであるようにおもう。
つまり、他人がたいして気にしていないことの顛末の先を、自分は感じて
おごるのである。「そんなことじゃ、きっとこうなる」とか「何とかしない
と、自分まで罪をおしつけられそうだ」とか、その中身は意外にたくさん
ある。どこかで、関わりかたを限定して、その結果の悩みにとらわれている
状態を半回転して考えている答えの緻密さの中身など、本当にシンプルな
答えに見える、安っぽい考えに終始して、答えを間延びさせて、相手や周りに
考えさせるのである。どこか、無責任に見える、その態度に癇癪が伴って
意外な利点を言い聞かせているのみの自責のなさが、勢いを増すことに、自分
らしさがあると思うのも、逆転の作用かと思うほど、短所が長所に思えてしまう
のだ。その聞きだらしなさたるや、ほとんど、他人の話に耳を傾けない、自分
だけの世界観である。それを誇らんとすべく、凡能な自分の力に触れられると
申し訳なさそうに、恥を感じるのである。どうにか、その恥をさらしたくない
と逆らおうとすればするほど、自分の中の感情の鬱陶しさに感じて、人を
けなすようになると、なかなか、自分に孤独があることを、認識しにくくなって
来るような気がする。
そんな、気配の読み方に、自分の心の不揃いな点として、不明瞭な気持ちの
ありかに迷い続けていくようになる。
それが、一切合切の心のこだわりになると、孤独がいかんともしがたくなり
自分を苦しめるのである。
以上が、筆者が自分に感じる承認欲求の中身であり、他人に感ずるものでは
ないと最後に申し上げたいと思います。