今日もまたかと、思い違いに感じる、日々の葛藤において、感覚的なこみ上げてくる
いかがわしさや境のない、発展のしようのない、時の封じ込めなんてものに近い
わからずやの深層心理には、一体、今、自分が何を感じて生きているかの差に
近い、人の悩みややっかみの多さに思えて、今一度、人生について考えてみたくなる。
自分が誤って陥った、人生の悲惨な展望に対する、甘い思い込みの中身なんて
自分がおもった以上の、感じ方に思えても、人の感傷に浸る暇もないほど
簡単に思えててないような気もする。
もし、もう一回生まれ変われたらなんて、期待している以上の簡単な結末なんて
思いもよらず、誰かの人生の踏襲に思えて、思わずバカバカしく思ってしまえる。
滲んだ比較の人生に誰かが感じる以上の悲惨さがあっても、自分にはきっと
いかにもと自己満足のような面持ちに思えて、いささか、落第者のような気
さえしてくるもんだ。
だからといって、自分が我慢できるほど、人にそれを強要することの意味は
自我の唯一の感じ方の始まりかと、感じてもないことに同感を得ることの
虚しさなんて、実際には自分への感謝の無さから来るのか、誉めない自分の
せいなのか、あらかた無視してきた、急ぎ足の自分に愛情がそそげないことの
怒りなんてもんであっても、所詮、認識の中の愛から愛に移ることの移ろい
のさなかのできごとのようで、いっぱいいっぱいの気持ちを、人に悟られたくない
事の、戒めなのかもしれない。
いっそ、このまま死に果てたいと思う気持ちの生れようにも思う、黄ばんだ
青春の罪がいさかる、自責の念に思えて、きっとゴールは遠く離れたものに思えて
しまうだろう。
答えはないのに、人はなぜそんな、ソンナ人の答えに耳を傾けないのか?
自分にもない人生の感覚的本題に気づくことなく生きることの悩みを
人は抱えて生きているのかもしれない。